ダ・ヴィンチ・コードを観て
土曜の夜にTVで映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観て、宗教について色々と考えさせられた。映画(もともとは小説だが)だからかなり誇張はあると思われるが、人類の歴史において、宗教というもののせいで多くの血が流されてきたことは間違いないであろう。ちょっと真面目に、宗教について独り言を述べてみたいと思う。
そもそも宗教とは、どのようにして生まれたのだろうか。まず、地球上に人類が誕生するわけだが、誕生当時の人間は、当然、モラルが無い中で生活を送っていたわけである。強盗、殺人、強姦、暴力・・・など、何でも有りだったに違いない。しかし、人間には知恵があるから、これではいけないと考える者がでてくる。誰かがリーダーとなり、多くの人間を統率するようになる。国の始まりである。リーダーはルールを作り、ルールを破った者に罰を与えるようにする。法律の始まりである。これにより、少しずつ人間界にモラルが生まれる。当時は、力のある者(多分、喧嘩が強い者)がリーダーになったと思われる。ただ、どんなに力のある者であっても、徐々に老化が進み、力が衰えていく。そうすると、若くてより力のある者がリーダーになり、老人となったリーダーは追放される。正に猿の世界である。しかし、人間には猿を上回る知恵がある。老人になってもリーダーとして君臨したいと思う者が出ても不思議ではない。そこで考えたのが、人間を超えた力である。病気を治す、雨を降らせる、夜を明るくする、空を飛ぶ、水面を歩く・・・等、とにかく何でも良い。普通の人間ではできないような能力を示し、自分には人間の力を超える能力が備わっていることを示すのだ。今で言うマジックでも超魔術でも何でもい良い。とにかく、人間の力を超越した力が備わっていることを示すことで、老人になっても多くの人々を従わせるのだ。これが、いずれ天の力と呼ばれるようになり、太陽の力と呼ばれるようになり、神の力と呼ばれるようになっていったのではないだろうか。「私に逆らえば、神から罰を与えられるぞ」と脅すことで、権力を保つのだ。こういった神の力は、王が、長期に国を治める上で必要であったに違いない。これが宗教の始まりだと思う。だから私は、神や宗教とは、人間が権力を保つために作り上げられたものと考えている。
聖書によると、神が人間を作ったことになっているが、それでは猿や犬や鳥は誰が作ったのか?それらも神が作ったとすれば、虫や昆虫は誰が作ったのか?それも神だとすると、プランクトンは誰が作ったのか。そして、微生物は誰が作ったのか、ウィルスは・・・というようになっていく。まあ、科学的な視点に立てば、人間が神という概念を作り上げたと考える方が妥当であろう。宗教は、人間が作り上げたものだから、それぞれに都合の良い解釈をするため、それは人間にとって善にも悪にもなる。ダビンチコードの中で問題となっていたキリストが人間なのか神なのかは、どうでも良いことだと思うのだが、これまで、そのことで多くの殺戮が繰り返されてきているのだ。
私の家族は、親も含めて特別に信仰している宗教は無いが、宗教は時に生きる希望を与えてくれるし、困った時などはついつい「困ったときの神頼み」でお願いしてしまう。これまで、「FC東京を勝たせてくれ」と何度神に祈ったことか(この手の祈りはほとんど通じない)。不治の病にかかっても、宗教の力で落ち込まずに済んだとか、病気が進行しなくなったといった話はよく耳にする。時に宗教は、楽しみの少なくなった老人の心の拠り所にもなる。そういう意味では、宗教とは人間にとってとてもいいものであると考えられる。
しかし、その一方で、神を信じるあまり自殺する人がいるし、殺人を犯す人もいる。人類の歴史の中で、数多くの宗教戦争が行われてきたが、自分の信じる神が正しいという大義名分の下に、多くの殺戮が繰り返されてきているのだ。また、最近では、聖書に書かれているからとの理由で、輸血を拒否する宗教もある。自分の子供が重傷を負い、輸血を必要としているのに、宗教上の理由から親が輸血を拒否するのだ。これは神の教えを忠実に守るという尊い行為のようにもみえるが、実はとても恐ろしい行為である。そもそも、聖書が書かれた時代に輸血という概念は無いわけであり、神が輸血をしてはいけないと述べるわけがない。私の記憶では、聖書には「他人の血を食してはならない」と書かれていたように思う。これは一理ある。人間の体から出る液体で、一番不潔なのは血液である。尿でも唾液でもないのだ。昔は、彼女が指を怪我すると、優しい彼がそっとその指の血を吸ってあげるみたいな光景が有ったと思うが、これは非常に危険な行為であり、彼女が感染症にかかっていれば、彼女の血を吸ったことで、彼はその感染症に感染する可能性が高いのだ。本当に吸血鬼がいたとすれば、吸血鬼の多くが感染症で死ぬであろう。血液を飲むことは、尿を飲むよりも、唾液を飲むよりも、ずっと感染の可能性が高いわけで、非常に危険な行為なのである。また、仮に聖書の書かれた時代に何らかの方法で輸血ができたと仮定すると、当時は血液型など細かいことがわかっていなかったわけで、他人の血液を輸血すれば、かなり高い確率でその人は死ぬことになる。だから、当時、輸血は駄目と言う教えがあったことはうなずける。しかし、現在は血液型がかなり細かくわかるようになり、血液が感染しているかどうかもかなり高精度にわかるようになり、輸血を安全に行えるようになったのだ。そんな時代において、輸血で人が助かるのに、輸血を拒否するというのはあまりにもナンセンスである。
日本人は、多くが仏教徒であるが、かなりいい加減な仏教徒であり、真の意味で信者と呼べる人は少ない。実際に心から神を信じている人は少ないと思うが、毎年、大晦日の夜に明治神宮で長蛇の列をなしている。それも、クリスマスを祝った1週間後にである。結婚式では、多くの人が離婚しないと神に誓うが、離婚する人は後を絶たない(実際、誓いを破っても、バチが当たったとの話は聞かない。再婚の際も、再び神の御前で離婚はしないと誓っている)。イスラム圏の人達からみると、日本人とは本当に滑稽な民族であるに違いない。多くの日本人は、自殺したり、殺人を犯さない程度に、自分の都合の良いときだけ、自分の都合の良いように神を信じているわけであるが、私はそれでいいと思う。そんないい加減な国に生まれたことを、それこそ神に感謝すべきではないだろうか。
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